大震災のイベント化
今日は3月11日なので、全国で関連行事が行われています。
あの日から早くも7年。
ボクは阪神・淡路大震災の被災者なので、すでに23年。
23年前はインターネットもほとんど誰も使っていなくて携帯電話もスマホもSNSも無かったので、記録がアナログなんですよ。
かなり風化しています。
東日本大震災は2011年なので、数多くの人がTwitterを使っており、いわゆるマスメディアに限らず膨大な情報がデジタルデータとして残っています。
デジタルデータなのでアナログと違って何年経っても劣化しません。
鮮明なデータが鮮明なまま残るんですね。
被災した人間としては、あの、
がんばろう日本
と言う、いかにも他人が考えた感のある言葉を使うことができないんですよね。
ボランティアにしても、ボランティアのためのボランティアがとても多く、ホントのボランティアをやっている人や被災地の人にとって迷惑だったりします。
ボクが繰り返し言っていることを、今回も言います。
まず、震災はたんなる現象のひとつ。
震災で亡くなった人はたくさんいますが、震災以外で亡くなる人もたくさんいます。
日本では毎年、100万人以上亡くなるわけで、1日あたり3000人くらいは亡くなっています。
事故、病気、犯罪。
震災をイベント化する人ほど、震災時に何か楽しいイベントをすると、
不謹慎だ!
なんて言うわけです。
そんなことを言い出したら、毎日3000人亡くなっているんだから、1年中、欠かさず黙祷すべきでしょ。
震災だけが特別では無いんですよ。
まさに、他人事の考え方。
他人の苦しみを自分のことのように考えられる人と、そうでない人との差。
規模と重さ
それと、もうひとつ大切なこと。
人の命の重みに軽重はありません。
震災で亡くなるのも犯罪で亡くなるのも悲しみは同じです。
ですが、震災は7年経っても忘れられませんが、ひとつの殺人事件で命を落とした人は、数年も経てば忘れられてしまいます。
これも、また、震災のイベント化。
ボクは、こんな例えをよく人に話すんですよ。
100の被害を受けた人が10万人いる事件と、10000の被害を受けた人が1人だけの事件。
どちらの被害者が苦しいか。
もちろん、紛れもなく後者です。
規模の大きさに目を奪われることよりも、苦しんでいる人の苦しみの重さに目を向けるべきです。
例えば、何の罪も無い人が交通事故や犯罪に遭い神経が麻痺し、一生、寝たきりで話すことや意思を伝えることも難しい人がいます。
一生の苦しみ。
そんな人たちには投げかけられない、
がんばろう日本
と言う言葉。
自然災害は生物である以上、宿命だとボクは思います。
悲しいですが、起こった過去は消せませんし、これからも起こります。
しかし、人為的な事件は人間の問題なので発生そのものを防げるのです。
なのに、そんな事件により一生、苦しむことになり、しかも、事件直後だけ報道され、それ以降は人々から忘れ去られる。
震災の日が来るたびに、ボクは、震災のイベント化の現状と、震災以外のもっと重い苦しみを背負っている人たちのことに思いを巡らすのです。