非天マザー by B-CHAN

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震災の記憶

大震災の記憶は消えない


阪神淡路大震災の発生当時、ボクは社会人一年目で、兵庫県宝塚市にある社員寮に住んでいました。
確か前日の月曜日が祝日で、当時のカノジョといつもどおり楽しく遊び、帰宅後は部屋の片付けをした記憶があります。
朝方、ゴゴゴゴという強い揺れが起こったので、すぐに目覚めました。揺れはなかなか収まらず、ベッドで寝ぼけていたボクは天井が落下してくることを心配して、しっかりと布団をかぶったのですが、布団ではどうにもならないことに気づき、ベッドの横に降りてうずくまっていました。
その一連の行動の間、ずっと揺れていました。
揺れが収まると、揺れが社員寮の他の部屋から、あちこち、
「大丈夫かー!」
という声が聞こえてきました。
とりあえず、下に降りて、社員寮の敷地の庭に集まろうと言うことで、照明が付かない暗闇の中で行ってみたものの、Tシャツと短パンスタイルのボクに1月の空気はとても冷たく、服を着るために再び部屋にもどりました。戻る最中にも何度も大きな余震が起こり、そこで初めて建物崩壊の恐怖を感じました。実際には建物は一部損壊で持ちこたえました。
なんとか身支度をして、再び庭に戻ると、近所の住民の人たちの集合場所となっていました。大けがをして痛みのあまり泣き叫んでいる人もいました。
また、近くの家の中から、
「助けて−!」
という悲鳴が聞こえていました。おそらく建物がゆがんで中から脱出できない状態になっているのでしょう。
すぐにはしごを持って救出チームが向かいました。
朝方の地震発生だったので、すぐに周囲は明るくなっていました。
緊張をほぐすため、タバコを吸おうとする人がいましたが、ガスの臭いがあたりに漂っていたので、止めました。
明るくなってくると、周辺の様子がよくわかってきました。
多くの家屋が、見事なまでにがれきの山となっているんです。このがれきの中に人がいるんだなあ、とただただ無力に思うしかありませんでした。
近くの歩道橋が落下し、道路に突き刺さっていました。
しばらくはライフラインも動かず、ただひたすら、できる範囲で周囲の救出活動をしていました。
出社時刻が近づき、同じ寮に住んでいる、ボクと同じ支店勤務の先輩二人が、大阪府豊中市にある支店に向けて出発しました。
ボクは残ることにしました。
午前10時くらいでしょうか。突然、部屋のテレビのスイッチが入りました。そう、電気が復旧したのです。
その直後、近所で爆発音がしました。おそらく今の通電で何かに引火したのでしょう。
電話はなかなかつながりませんでした。ボクが奈良県の実家に電話して通じたのは昼頃になってからでした。
弟が電話に出ました。
「親はどうした?」
と聞くと、
「仕事に行った。」
と言うので、この大惨事のさなかにのんきに仕事行ってるのか?と無性に腹が立ったので、弟に大げさに伝えました。
「大地震が起こって、オレ、全身の骨が砕けてる。」
さすがに弟もあせり、親の勤務先に電話したようです。電話したからと言って何かができるわけでもないというのは言うまでもありません。
近所のコンビニに行ってみました。
人が殺到していますが、レジも壊れているので、オーナーはどれでも一つ200円というふうに決めて捌いていました。棚にはほとんど何もありませんでした。
午後になって、とある先輩が、神戸に住む元カノが心配だと言いだし、ボクのクルマで神戸に向かうこととなりました。
その段階では、まだ神戸がどうなっているのかは全くわからない状態でした。
クルマに消化器を1本積み込み出発。
元来、明るい先輩であるのと、こんな状況の時こそ落ち込まずに行かなきゃ、ということもあり、クルマの中では、かなり楽しく会話していました。
いつもなら、宝塚から神戸まで、一般道を通っても1時間程度で到着する距離ですが、その時は違っていました。
まず、道路がひび割れしており、さらに電柱が倒れて道路に覆い被さっていました。
そんな状況に直面するたびに、別のルートを探すことになりました。
やっとの思いで宝塚市の隣の西宮市の国道171号線に来ました。
この国道は高架で阪急電車の線路を超えて行くのですが、なんと、その高架道路が落下して阪急の線路をふさいでいました。
それを見たときはさすがに二人とも唖然としました。
再び、迂回ルートを探すこととなりました。
朝から何も食べていないので、さすがに空腹だったのですが、もちろん営業している店など1軒もありません。
二人とも、とにかく話しながら先を急ぎました。
数時間かけて、ようやく、目的地に到着。すっかり夜になっていました。
しかし、その人の家は、がれきの山になっていました。
あれほど明るく話していた先輩が、それを見た瞬間から無言になってしまいました。暗闇のがれきを前に生存確認すらできず、どうしようもないまま現場を離れました。
国道43号線に沿う阪神高速道路の倒壊現場の近くも走りました。
そのときはまだ、現場に来れないと言うこともあって国の対策も本格的に始まっておらず、危険な箇所にも自由に出入りできる状態でした。
たくさんのビルの崩落現場などを通ったせいなのか、あるいは神戸での悲しい結果のせいなのか、高速道路の倒壊を見ても、大きな驚きを感じることはありませんでした。
夜、遅くに寮に帰ってきました。会社から弁当の差し入れがありました。
その日は、寮生全員が食堂に布団を引いていっしょに寝ました。
翌日は、3駅分歩いて、雲雀丘花屋敷駅から阪急電車に乗って出社しました。
豊中市も被災地域で、会社のコンピュータなども一部損壊したようです。
上司からは、
「昨日はなぜ、いつもどおり出社しなかった?」
と怒られました。
何だかなー。と思いました。
次の休日には、ボクのカノジョに家に行きました。
寝ていたベッドが、彼女を乗せたまま部屋の反対側まで移動したそうです。
ボクは彼女のお父さんに、
「タンスはしっかり固定してください!」
と説教してしまいました。今思えば、よく言えたな、という感じですが、その時は真剣だったのでしょう。

トラウマ


日数が経過するに従って災害の情報が明らかになっていき、歴史的な大震災であったことが改めてわかりました。
無事に生きているだけでも十分に幸せなボクですが、この体験は強烈なトラウマになりました。
今でも、少しでも揺れると、体がビクッとして、ベッドの横にうずくまります。
震度3くらいの地震が来るたびに、大慌てで外に飛び出してしまいます。
今は東京暮らしのボクですが、住まいを探すときには、まずは地震のことを考えます。
地震で崩壊しても圧死する可能性が低い住宅。
理想は平屋です。現在はハイツ形式の2階建て物件の2階に住んでいます。
東京に移住した当時はあまり選択の余地が無く、11階建てのマンションの3階部分に住んでいましたが、高層マンションの下層階が押し潰された現場をたくさん見ただけに、毎日が恐怖の連続で、とにかく引っ越しを急いでいました。
そのマンションは4ヶ月で出ることができました。
あれから15年。
体に付いたトラウマは変わらず消えることはありません。
今は耐震性能が改善された住居が増え、家屋倒壊のリスクは減りましたが、東京の街を歩いていると、まだまだ危険そうな建築物はたくさんあります。
家屋の耐震性能ではなく、個人でできることは家具の固定です。これさえしておけば命を落とさずに済んだ事例はいくらでもあります。
特に寝室に大きな家具がある場合、非常に危険ですので、絶対に固定しておきましょう。
阪神淡路大震災では、幸いにして、ボクの友人知人たちはみんな無事に生きてくれていました。
改めて慰霊をしたいとともに、こうやって書き記すことによって記録が将来にわたって残っていけばいいな、と思っています。