教育の意義
最初に言っておきますが、現時点で体罰の具体的な実態が明らかになっていないので、ボクは体罰に賛成も反対も表明しません。
判断材料が少なすぎるからです。
今回書くのは、賛成反対の視点では無く、論理的に矛盾があると思ったので、その点について記述するのみです。
体罰をする側は、何らかの理由で体罰を正当化しようとします。
そうしないと、自分の行動に非があることになるからです。
正当化するには理由が必要です。
体罰を正当化する際の理由としては、チームを強くして勝ちに導くという事が語られます。
どこの学校高忘れましたが、とある体罰実施校の部活で、そこの出身者がオリンピックで金メダルを取ったという例もあります。
そうなると、体罰の意義に実効性が出てくるように思われがちです。
で、ボクはこのブログでも以前から語っていますが、物事には相対的な物と絶対的な物があります。
部活でチームを強くして勝ちに行くというのは、絶対評価では無く相対評価です。
例えば、とある大会に5つの学校が出場し、そのうちA校のチームだけが体罰教育を行っているとします。
ここでもし、A校が優勝すれば、やっぱり体罰も必要だ、と思い込む人が少なからず出てくるでしょう。
しかしそれは物事の一面しか見ていません。
どこかが必ず勝つ
どのチームが1位になるかは相対的なモノです。
例えば、別の大会に5つの学校が出場し、5つとも体罰は行われていないとします。
ではこの大会では優勝者はいないでしょうか。
いえ、必ずどこかの学校が優勝します。
なぜなら優勝は相対評価だからです。5つの中で一番強いチームが優勝するのです。当たり前ですよね。
つまり、体罰の有無にかかわらず、相対評価である以上、必ずどこかが1位になります。
勝つために体罰が必要という理論は崩れます。
逆も言えます。
5つの学校が出場し、すべてのチームで体罰が行われているとします。
その大会でも必ずどこかのチームは最下位になります。
相対評価である以上、体罰を行っていても、必ず最下位になるチームが存在するわけです。
以上を考えると、体罰を正当化するときの、
「勝つため」
という理由は、矛盾していることになります。
最初に書いたとおり、体罰そのものの中身や実施方法などが具体的に明らかでは無いので、その視点からの正当性はボクは判断できません。
しかし、体罰を正当化する際の理由という観点からは、体罰は不要という判断ができます。
いかがですか?
よければ過去の記事も読んでみてください。
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