千羽鶴
被災地への千羽鶴。
せっかく送ってあげたのに、いらないと言われて怒っている人たちがいます。
世の中には頭の良い人、思考力がある人もいますが、そうでない人もいます。
上記の例でも、頭の良い人なら、すぐにおかしさに気づくんですが、そうで無い人は怒っちゃうわけです。
「せっかくの善意を踏みにじるとは。」
「送った子供の気持ちを考えろ。」
こんなことを平気で言っちゃうわけです。
理由は簡単。
そのおかしさに気づいていないから。
残念ですが、思考力が足りません。
そこでボクが、なぜおかしいのかを書いてみますよ。
困っている人たち
話を簡単にするために、別の例を書いてみます。
ちょっと例としては変ですが気にしないで。あくまでも話をわかりやすくするための例です。
道端で、体調が悪くなって、苦しくてうずくまっているAさんがいるとします。
そこへBさんが来て、Aさんの上に重い岩を載せました。
ただでさえ苦しいAさんは岩を載せられてさらに苦しみます。
Aさんは、
「やめてください。」
と言います。当たり前ですね。
ところがBさんは言います。
「これはあなたの苦しみが治るよう祈る儀式です。あなたは私の善意を踏みにじるのですか?」
ね、変でしょ?
善意があるのはわかります。だからその気持ちはありがたく受け取りましょう。
しかしその方法論はあくまでもBさんの都合であって、苦しんでいるAさんにとっては何のメリットもありません。
メリットどころか、さらに苦痛を与えられているのです。
書いていて、あまりにも当たり前すぎてバカらしくなるんですが、要はそういうことです。
送る側の子供よりも被災地の子供
被災地の人はただでさえ苦しんでいるんです。
だから被災地以外の人からの善意の気持ちはとても嬉しい。
しかし、気持ちを超えた行動は時にはさらなる苦しみを生みます。
被災地はめちゃくちゃで、人の居場所もモノの置き場も不足しています。
そこへ千羽鶴が来たらどうでしょうか?
ただでさえ負担なのに千羽鶴の置き場を確保しなければならないという余計な作業が増えるのです。
苦しんでいる人にさらに苦痛を与えます。
送る人は自分の都合しか考えていません。さっきのBさんですよ。
だから、
「送った子供の気持ちを考えろ。」
なんて言うんです。
送られた側の気持ちよりも送った側の気持ちが重要なんですね。
でも、送った子供よりも送られた子供の方がずっと苦しいんです。
なぜ苦しんでいる被災地の子供より、送った側の子供を優先しなきゃならないんですか?
送った側の子供よりも被災地の子供を大事にしましょうよ。
善意と言うのであれば、ホントに善意を送ってほしいモノです。
送った側の気持ちを優先させているのなら、それは善意では無いんです。
それこそ偽善。
祈りという「気持ち」そのものを拒絶してるのではないんです。
迷惑になっている「行為」を拒絶してるんです。
もし賢い大人なら、千羽鶴を送ろうとしている子供たちにそれを教えるはずです。
大事なのは迷惑なモノではなく、気持ちなのだ、と。
千羽鶴を送ろうと思っている人。
ホントにそれは被災地の人の役に立ちますか?
絶対に迷惑にならないと断言できますか?
自分の善意のために送ろうとしているのでは無いですか?
自己満足の善意ならやめましょう。