「いじめ」という言葉の軽さ
また、いじめによる自殺のニュースを見てしまいました。
ボクは以前から書いていますが、命の重みはみんな平等なので、震災での死も、いじめでの死も同じように重大なんです。
これまで、何十人、何百人といじめで自殺してきたか。
人を死に追いやるほどの悪質な行いがいじめです。
考えてみてください。
もし、身の回りで人が100人死んだら。
大事件ですよね。
国家はその事件の再発を防ぐための最大限の努力をすべきですし、国民からも当然、そういう声が出ます。
いじめによる自殺はまさにそれです。
毎年毎年、何人もの人がいじめで死んでいます。
まず、いじめという言葉を使うこと自体が認識の甘さを表している気がします。
呼び方を変えませんか?
学校でのいじめなら、
「校内犯罪」
に。
つまり、警察を動員させる案件であることを認識すべきです。
例え学生でも、モノを盗んだら警察が逮捕(補導)しますよね。
モノを盗むよりもはるかに重い罪じゃないですか、校内犯罪。
人を死に追いやるんですよ。
死ぬ苦しみや悔しさだけではなく、死ぬまでに地獄のような日々をすごしてきたんですよ。
どれだけつらかったか。
しかも毎年毎年、多数発生している。
いじめではなく、校内犯罪。
人が死んでいる。
警察がきちんと捜査すべき。
それを隠した学校は、当然、犯罪の隠蔽として処罰される。
「学校内のことにそこまでやるべきではない」
そう言う人もいるでしょう。
人は自分に関係の無いことだと、第三者的にそう言えるんです。
安全だから何でも言えるんです。
でも、もし自分の子供が死んでも同じことが言えますか?
人の命に関わる問題です。
ここまでやらないと、死に追いやられる人は後を絶たないと思います。
歴史がそう語っています。
関連記事