勇気を与えるという悪気のない上から目線
この前書いた、この記事は読んでもらえましたか?
「『頑張って』と言わないで…」被災地からの悲痛な声。
こういうのも書きました。
セ・リーグの開幕時期問題に思う停電地域の分担
ボクがここ数日気になるのは、立場や言葉が逆になってることなんですよ。
とにかく被災していない安全な立場にいる人たちは、
「がんばって」
「勇気を与えたい」
と言っていますが、実際は逆じゃないですか?
被災地の人たちは想像を絶する被害と悲しみを前にとっくにがんばっているんですよ。そこまでがんばっていないのは被災していない人間の方なんだから、がんばるべきなのはむしろ非被災者ですよね。
「できる範囲で支援します」
と言って痛くもかゆくもない程度の募金をするだけなら、がんばらなくてもできてしまいます。
勇気だって、与えるものではなくもらうものです。
スポーツマンや音楽家やその他の人が、「勇気を与える」と言っても、それは思い上がりです。
何から勇気をもらうかというのは、もらう側の気持ち次第です。
野球を見ても勇気をもらえない人もいますし音楽もそうです。
与えるのではなく、もらうのです。
むしろ、ボクは被災地の人たちが悲しみと絶望に晒されながらも次のことを考えて動いている姿を見て、勇気をもらっていますよ。
だから、その人たちに負けてられないという気持ちが沸くんじゃないですか?