人はみんな違う
人間はすべて違います。
完全に一致するのはクローンくらいです。
価値観が一致する人、と言う表現がありますが、価値観が1%の違いも無く完全に一致する人は存在しません。
そして、それが正常な姿です。
全人類がまったく同一であれば、それは個性の喪失であり、イノベーションの阻害、他人からの学びの機会の消滅を意味します。
寿司ひとつをとっても、マグロを好きな人もいれば、ハマチを好きな人もいます。
それは好みの問題であって、善悪とは何の関係もありません。
ここまでは理解できるでしょうか。
なぜか罵詈雑言
世の中には不思議なコトがあります。
例えば、ボクがわりとよく目にするのは、iPhoneユーザーとAndroid機ユーザーの罵り合い。
ボクはiPhoneとAndroid機を持っていますが、日常的に主に使うのはiPhoneです。
それは、ボクがiPhoneの使い勝手を好んでいるからです。
理由はよくわからないのですが、なぜかiPhoneユーザーとAndroid機ユーザーが罵り合うのです。
例えば、
iPhoneはスペックが低いのに高いから、iPhoneを選ぶヤツは馬鹿。
Android機なんて低品質機を使っているヤツは馬鹿。
どちらも、ボクが実際に目にしたコトがある発言です。(一字一句同じと言うコトでは無く、そう言う趣旨の発言を目にしたと言うコトです。)
もし、理由も無く人を殺して、喜んでいる人がいたら、ボクはその犯人に、もしかしたら強い怒りを覚え、罵詈雑言を浴びせてしまうかも知れません。
それは、悪事を犯したからです。
しかし、iPhoneを選ぶとかAndroid機を選ぶのは、単なる個人の好みです。
さっき書いたように、マグロが好きかハマチが好きかです。
マグロを好きな人が、ハマチを好きなヤツなんて馬鹿と言っていたら、なぜ?と思うでしょう。
そんなのは単なる好みだからで、善悪では無いからです。
ハマチを好きな人が、マグロを好きなヤツなんて馬鹿と言っていたら、なぜ?と思うでしょう。
そんなのは単なる好みだからで、善悪では無いからです。
iPhoneを選ぼうがAndroid機を選ぼうが、そんなのは単なる好みであって、善も悪もありません。
なのに、平気で罵詈雑言を浴びせたり悪口を言う。
なぜ、そんなコトができてしまうんでしょうか?
選ぶ理由は人それぞれです。
ボクはiPhoneとAndroid機を持っていると書きましたが、それぞれこれまでに何種類も使ってきました。
その上で、主にiPhoneを使っている理由は、さっき書いたように、ボクがiPhoneの使い勝手を好んでいるからであって、スペックが理由ではありません。
iPhoneにはAirDropやHandOffを始め、便利な機能がいくつかあって、ボクはそれを好んでよく使っています。
モノを選ぶ基準は人によって違います。
スペックを基準にする人もいれば、使い勝手を基準にする人もいれば、デザインを基準にする人もいれば、価格を基準にする人もいます。
どれを基準にするかは、単なる好みです。
スペックは劣るけどデザインが好きだから選ぶのも自由です。
自動車の話を例に出します。
同じ価格のワンボックスカーとスポーツカーがあるとしましょう。
誰かが、
同じ価格なのに遅いワンボックスカーを選ぶのは馬鹿
と言ったら、どう感じますか?
いやいや、スピードでは無く、荷物の積載量が欲しいからワンボックスカーを選んだ。
そんな人もいるでしょう。
一面的なスペックだけを基準にして、その好みと合わない他人に対して罵詈雑言を浴びせる。
おかしいと思いませんか?
でも、そのおかしなコトを平気でやる人たちが実際にいるわけです。
罪を犯したわけでも悪事を働いたわけでも無く、単に好みの基準が違うだけなのに。
何だか、とても悲しい社会だと思うんですよね。
罪の無い人に意味の無い罵詈雑言を浴びせるチカラがあるのなら、そのチカラを建設的なコトに使う方がよほど立派だと思いませんか?