繰り返される事件
悲惨な事件と言うのは繰り返されます。
「まさかこの街でこんな悲惨な事件が起きるとは。」
よく聞くセリフですが、その考え方自体が間違いです。
安全な街なんてありません。
統計上の治安の良い街と言うのがありますが、あれも勘違い。
統計値はあくまでも過去の実績です。
過去、犯罪が少なかった街が、治安の良い街だと思われてしまうのです。
しかし、犯罪者にしてみれば、
この街は治安の良い街だから、ここで犯罪をするのはやめよう
とはなりません。
過去に犯罪が少ない街だから、将来も犯罪が起こらないとは限りません。
自動車で死亡事故を起こした人の多くが、無事故無違反だった人です。
よく考えてみてください。
どんな街だって、最初の犯罪が起こるまでは、犯罪ゼロの街でした。
でも、その後、犯罪が起こっています。
統計上の治安の良し悪しなんて、意味の無いコトです。
ボクがあえてこんなコトを書くのは、命を大切にしたいからです。
治安の良い街を選ぶコトが命を守るコトではありません。
どんな街であっても、犯罪が起こる可能性があるコトを認識し、それに備えるコトこそが、命を守るコトになります。
犯罪者への糾弾
凶悪な犯罪を起こした犯罪者への糾弾は当然でしょう。
被害者や遺族へのいたわりも当然でしょう。
でも、それだけでは足りません。
犯罪が起こり、悲しみ、次の犯罪が起こり、悲しみ、それの繰り返しでは意味が無いのです。
犯罪が起こったのなら、次にはどうすれば起こらないようにできるかを社会として考える必要があります。
街作りや建物を建てる指針となる建築基準法には、
- 防火
- 耐火
と言う2つの考え方があります。
前者は、火事を起こさないコト、後者は、火事が起こっても耐えられるコト。
犯罪も2つの視点が必要です。
刃物を持った人間が襲ってきたら、全力で逃げるコト。
通学には大人が付き添うコト。
これらは、事件が起こったときの対策です。
もちろんそれはそれでとても大切です。
一方で、そもそも、事件が起こる前に防止するコトも大切です。
そこで、こんな話。
死にたいなら一人で死ぬべき。
これは非常に正しいコトを言っています。
罪の無い他人を巻き込むのは言語道断だからです。
しかし、現実には、他人を巻き込む事件が何度も起きています。
これは自動車事故に通じます。
スピードを超過するな。
飲酒運転をするな。
それらは正しい意見です。
でも、何度も何度も繰り返される事故。
つまり、いくら言っても、現実には守られない社会です。
1億人もいれば、何人も違反者は出てきます。
その結果、犠牲になるのは、罪の無い人。
だから、正論の掛け声だけではダメなんです。犠牲が繰り返されるだけですから。
大切なのは、防止する手段。
自動車に衝突防止装置が普及すれば、事故は防止できます。
では、事件の場合は。
多くの殺人事件は、生活環境に何らかの問題がある人が起こしています。
当たり前ですが、普通に幸せに暮らしている人が事件を起こす意味はありません。
いじめられたとか、虐待を受けたとか、貧困で食べ物にも困っているとか、何かに気褄っている人が、精神的に追い詰められて起こすケースが多いのです。
もちろん、精神的に追い詰められても犯罪をしなければ良いのですが、現実には犯罪は起こっています。
犠牲者を増やさないためにも、この現実に目を向ける必要があります。
死にたいなら一人で死ぬべき。
そんなわかりきった正論を振りかざしていても犠牲者は減りません。
死にたい人が他人を巻き込むコトを防ぐ方法を考える必要があります。
それが、
死にたい人を一人でも減らすコト
なんです。
さっき書いたように、普通に幸せに暮らしている人は、死ぬ必要もありませんし、事件を起こす必要もありません。
だから、多くの人が、貧困や虐待から脱出できる社会を作っていく必要があります。
それが、事件を防ぐコトにも、犠牲者を増やさないコトにもつながります。
ブラック企業を糾弾しておきながら、一方で、死にたいなら一人で死ね、と見捨てるのは、ダブルスタンダードです。
死にたい人には、死にたい理由があります。
苦しんでいる人を救いもせず、それを聞きもせずに、一人で死ね、では、犠牲者が増えるばかりです。
何の罪も無い人が犠牲にならないためには、その環境作り。
ブラック企業を糾弾するのと同様に、苦しい境遇にある人を救い出し、犯罪に走るのを防ぐ。
過去は変えられなくても、未来は変えられる。
事件のたびに被害者を哀れみ、加害者を非難する、それだけでは、悲劇の連鎖は止まりません。
知っておいてください。
耐火の前に防火があるコトを。